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第22話「ゼーレ、魂の座」

 惣流アスカのシンクロ率は絶好調である。

 碇シンジと初号機のように、ぶちっと切れれば100パーセントを超えて人外の能力を発揮してしまうというようなことはないが、あれは暴走であって、華麗なるアスカ様には似合わない。下手すりゃ溶け込んでしまうし。

 惣流アスカは、常に無駄なく美しく。日本人じゃないけど日舞を舞うように深紅の弐号機を操るのである。

 碇シンジは訓練は好きじゃないらしく、ぼけぼけっとした顔でなにやら妄想にふけっていることが多いから、ゆーあーなんばーわんは惣流アスカなのであった。

 しかし。

 それとは別に、惣流アスカは不機嫌だった。

 定時試験を終えたアスカの好成績を誉める葛城ミサトに、掌をひらひらさせるだけで応え、LCLの滴をぽたり落としつつロッカールームに向かう惣流アスカの、頭から無造作に被った大きめのタオルに半ば隠されたその眉は、いらだたしげに寄せられていた。

 このいらだちは、何かに誰かに原因があるというものではないので、なかなかに深刻なのだ。

 要するに。

「あたし、なにやってんだろ?」

 という、単純に見えてその実、えらく哲学的で根元的な疑問にぶちあたってしまった外見14歳、内面16歳の少女の苦悩なのであった。

 自分で言うのもなんだが、才色兼備の乙女だ。

 スカートの裾からすらり伸びた脚を軽く振るだけで、学校の男どもは鼻の下伸ばして寄ってくるし。

 暗記中心の中学の教育課程なのであまり目立たないが、もっと高等なことやらせれば、大学教授も目を剥くような鋭い思索を展開しちゃったりするほどに頭は切れるし。

 サードインパクトを経るまでに、それなりに地獄も見て、己の限界というものにも突き当たって、心壊れてしまいそうな絶望挫折を乗り切ってきたから、精神的成長も著しい。

 その、どこに出しても恥ずかしくない超優良株、文句無し百点満点美少女の惣流アスカラングレーのはずが……ふっと自分の存在理由をいつのまにやらどこかに置き忘れてしまったような心許なさの中に落ち込んでしまっていた。

「なあんだかなあ。ううん」

 わしゃわしゃと頭をかきむしりたくなる衝動を、髪の毛の後の手入れのことを考えてかろうじて押しとどめ、惣流アスカは拳骨で自分の頬を両側からあっちょんぷりけと押し潰して唸った。



 つい先日のことのような、あるいは遙か遙か昔日の出来事のような、しかし実はまだ見ぬ未来の情景であるのだろうあの赤い波の打ち寄せる滅びたジオフロントの景観を思い起こしてみる。

 碇シンジはそこいらの朽木を寄せ集めて墓標の代わりらしい杭をうちたて、大事そうに握りしめていた銀の十字架を飾って泣いてばかりだった。

 寝かされた浜辺からその様子をうかがいながら、アスカ自身は生きているのか死んでいるのか、自分でもよく分からないふわふわとした気だるさの中にいた。

 下手くそに巻かれた包帯が、『気持ち悪い』。

 この惨状の中で、とにかく白い包帯を見つけてきて、ずたぼろになった弐号機の中でやっぱりずたぼろになっていた自分の手当をしてくれたことは、まあちょっち感謝してやっても良いが、それっきりほっぽっとくのは酷いと思う。

 薄すぎるプラグスーツだってねちゃねちゃと肌に張り付くようで、いい気分じゃないのだ。いや、だからといってシンジに脱がされるのもかなり困るが。

 もしかするとシンジは、アスカをすでに死んでいると思っているのかも知れない。

 勝手に殺さないでよね、とも思うが、いまいち生きているという実感もないので文句を付けるのは我慢した。

 しかし、もし死んでいると思っているのだとしたら、シンジはわざわざ死体に包帯を巻き付けたのだろうか。その気持ちを想像してみると、ますますもって『気持ち悪い』。

 空を見上げれば、というか仰臥しているので嫌でも目にはいるのだけれど、真っ赤な血潮のような虹がかかっているし、その根もとをみやると馬鹿でかいファーストの顔が、ひび割れ壊れた彫像のように転がっている。

 うーん、前々から変なやつだと思っていたが、いつの間にあんな彫像になる技を身につけたのだろうか。しかもお世辞にも可愛くないし。ファーストの趣味は分からん。

 もし世界の英雄として惣流アスカラングレーの彫像を造ってもらえるなら、前世紀にアメリカにあったという自由の女神像のようなりりしく格好良いものにしてもらおう。

 なんて、くだらないことを考えていると、ごろりとシンジが横に寝っころがってきた。

 勝手に人の横に添い寝してんじゃないわよっ、と怒鳴ろうと思うやいなや、しくしくとまた泣き出しやがった。こいつもファーストに負けず劣らず、変なやつだ。

 オナニーのネタにもされたし。ちょっといじめたら逆切れして首絞めてくるし。

 ちゃんと責任をとってもらわないとわりがあわない。

 責任ってのは。うーん。別に結婚してくれとか言ってんじゃないからね、そこんとこ、誤解しないように。朝になったら起こしに来てくれて、ちゃんと朝御飯にみそ汁を用意してくれて、休みには遊びに連れてってくれて、疲れたら肩の一つ脚のひとつも揉んでくれて、つまりあたしのためにだけ生きなさいってことよね、うん。

 とまあ、無表情のまま、頭の中はあれこれぐるぐる考え巡らせていたアスカに、碇シンジははたと起きあがり、ぐいぐいぐいと顔を寄せてきた。

「そうだ。そうだよ、うん」

 となにやら勝手に納得している。

「もう一度会いたいと思えば。希望はぼくの中に。イメージが時の流れを作り出すんだよ、うんうん」

 なにを言っているのかまるっきり分からないが、碇シンジはぐっと拳を握りしめて立ち上がった。顔は惚けているが、涙はもう乾いている。

「ぼくはもう一度会えるのかも知れない。カ、カヲルくんに……」

 あ、ぽっと頬を染めやがった。ちょっと待ちなさいよ、カヲルってなによ、カヲルって。あんた、あたしへの責任はどうすんのよ、こら。

 赤い波が寄せては返し、また返しては寄せる黎明と黄昏の溶け合うゆらめきのなかに、碇シンジはこぼれ落ちるように消え去った。

「あ……バカシンジ」

 頬を撫でてやろうとようようのことで伸ばした白い指が、中空をつかむ。

 ほのかな陽炎さえ残さず、神韻縹渺と闇の取り囲む。

 唐突に胸をきりと締め付けた寂寥感に戸惑う惣流アスカに、鈴というには落ち着いた、しかし透き通った声が落ちた。

「ファースト?」

 彫像になっているのかと思えば、染み一つない第壱中学の制服に身を包んだ綾波レイが、アスカのすぐ横に佇んでいた。

 あんた、どこ行ってたのよ、なにやってんのよ?

 じろりと睨み付けたアスカを見下ろし、綾波レイはふわと微笑んだ。あたたかくはなし、どこか幽玄に。

「碇くんは、見つけに戻ったわ」

 綾波レイは繰り返した。

「だからわたしも戻るの。はじまりの時に。ひとつになるために。それはとてもとても気持ちのいいことだから」

 なに言ってんのよ、説明しないさいよっ。

 咎める間もなく、綾波レイもまた幻に溶ける。

「見失った自分は、自分の力で取り戻すのよ……」

 さいごに置かれた言葉だけが、闇に横たわった。

 静寂。

 なにがなんだかわかんないわねっ、と惣流アスカ。寄せる波音がざわざわと身体をくすぐる中で、ぐっと唇をかみしめたのだった。

 ようするに、あたしをひとり残していこうってわけ? ゆ、許さないわよ、そんなの。

 バカシンジのくせに。ファーストの分際で。



「ってまあ、むかついたから、あと、追っかけたんだけど……」

 これで良かったのだろうか、という疑念をうち消せないのであった。

 もしかしたら、あの赤の浜辺で、そのままに生きていく選択肢もあったのかも知れない。夢のようにあやふやな感覚だったけれど、覚醒する気になれば、あの光景が現実となって時はそのままに紡がれていったのかも知れない。

 なにもわざわざ時を遡らなくとも。やり直しの時間を過ごさなくても。

 碇シンジは目的をもってやり直している。

 綾波レイも明確に意図があるようだ。

 いや、あのボケ二人はともかく、シンジの話ではリツコまでなにやら画策して、いまふたたびの時を生きているという。

 あのリツコのことだから、漠然と流されているわけでも無かろう、なにかやらかそうとしているに違いない。

 じゃあ、自分はなんなのだろう。

 なんかむかつく、と。遡った理由はただそれだけであったような気がする。

 今更使徒をどうこうしようというわけでもないし、エヴァはママが居るから大事だけど、といってエヴァがなくてはなにもないなんて子どもでも、もはやない。

 シンジを下僕にするため、なんて阿呆な理由だけでこんなことしてるなら、それこそあまりにへっぽこだ。

 あたしひとりだけ、すっごく中途半端に過ごしているような。

 すっごくいらいらすんのよね。

 訓練でのシンクロ率一番でも、ぜんぜん嬉しくない。

「はあ、とりあえずシャワー、浴びよ」

 溜息つきつつ、エヴァンゲリオンパイロット女子更衣室に向かう廊下を歩む。

 男子、女子といってもパイロットは総勢3名に過ぎず、男子は碇シンジひとりだから、あまり分け隔てる意味はない。施設の無駄遣いだ。

 もちろん、だからといって一緒にされたのでは困るが。

 角を曲がると、先に上がっていた綾波レイの後ろ姿が更衣室に消えるのが見えた。

「って、そっちは男子更衣室じゃない?」

 まさかっ。ファーストはもうシンジとそういう関係に?

 心臓がばくばくいった。

 あれだけ露骨にモーションをかけ続けていたのだから、そうなっていてもおかしくはないけど。でもっ。

 慌てて足音を忍ばせ、そろりそろりとアメリカンニンジャ風に更衣室へと壁を伝う惣流アスカ。あんなことやこんなことを想像して、頬が赤い。

 右足差し足左足……。男子更衣室の自動ドアはなぜか開放されていた。

 そぉっと覗き見る。

 見る。

 目を凝らす。

 暗くて分からない。

 電気を消している。ということは、やっぱり?

「……碇くぅん……」

 平坦だが、どこか悩ましげにも聞こえる綾波レイの吐息のような声。

 惣流アスカの心拍数はますますもって跳ね上がった。大人ぶっていても、身体はまだ中学生の処女だ。知識だけで経験はない。

 その分、溢れるばかりの好奇心と。ちくり胸を刺すもやもやした想いの固まりと。

 ゆっくりと空気の揺らぎにも気を遣うように、惣流アスカは男子更衣室に足を踏み入れていった。気配は並ぶロッカーの一番奥から。

「……碇くんの臭いがする……」

 そこには綾波レイがひとり。

 碇シンジの脱ぎ捨てた下着に鼻先を埋めて、くんすかくんすか、匂いをかいでいる姿があった。

「変態?」

 期待は見事にすかされたが、見てはならないものを見てしまったような気がして、背筋を凍らせる惣流アスカであった。



 国連人類補完委員会、という。

 これは事情を知る者の間でのみ通じる俗称であって、正式名称には人類補完などという文字はない。だからといって裏組織ではなく、セカンドインパクト後の全世界が最優先で総力を傾けている機関だ。

 人類補完計画こそが、残された人類を救う唯一の手段であると、どの国家も納得している。一部の狂信者が極秘裏にすすめているというような、漫画の世界でしか存在し得ない幼稚な計画ではない。この計画の遂行は全人類の総意なのである。そうでなくては莫大な予算を湯水の如く使えるものではない。

 ただ、倫理的に見てかなりあやしげな部分が多い。というより、屁理屈だけ一人前で自分では何もしようとしない偽善者たちからしてみれば、とうてい許されるものではない。

 全てを公開すれば、大学研究者や低俗なマスコミから総攻撃を受けてしまうことは必至だった。それに無能な大衆が流されてしまえば、政府の一つや二つ、簡単に転覆してしまうだろう。

 いくら人類のために必要であると分かっていても、己の地位財産を全てなげうってのめり込むような政治家はさすがにいなかったから、致し方なく、人類補完委員会は多くの秘密を抱えている。

 さらに、実践すべき補完のフェイズをどこに置くかという点では、各国の意思統一がなっていなかった。俄然、なすりつけあいのような情けない場面も出てきてしまう。聖人君子などというものはいないものだ。

 この人類補完計画に日本の参画が許されていないのは、単純に言ってしまえば、人種差別のためだった。さらにキリスト教的信仰心が根本的に欠落している民族への不信だ。

 計画は西欧中心に進められている。

 そんな計画の最前線実行機関であるネルフ本部総司令が日本人であるのは、とても奇異なことだったが、政治的な不信を除けば、技術力において日本に勝る国家はなく、実務面での最初の試みである葛城調査隊以降の流れもあって、碇ゲンドウという男に託されていた。

 彼の有能さやクリスチャンであることが、ぎりぎりで評価され、この地位を許されている。

 それでも日本人に対する不信は拭えず、なにかといえば、補完委員会からの突き上げを喰らうことになる。

 くだらん話だ、と碇ゲンドウは内心憤慨するが、実際のところ、碇ゲンドウ自身、ゼーレ――これは一種の宗教団体だ――の思惑通りの補完計画を進める気などさらさらなかったからお互い様だろう。

 今日の会議でも、碇ゲンドウは、使徒侵入の事実はないと、知らぬ存ぜぬで押し通した。バレバレというほどでもない。

 補完委員会の連中だって、そんな事実はないに越したことはないと願っているのだから、逆に認めたりしたほうが大騒ぎになる。

 いざとなれば、碇ゲンドウを切り捨ててしまえばよい。所詮、日本人だ。

 そんな悪意がちらほら垣間見える人類補完委員会で、碇ゲンドウは鉄面皮を崩さずに、にやりと言い切って場をしめた。

「すべてはゼーレのシナリオどおりに」

 日本語に訳せば、「御旗、楯無もご照覧あれ」といったところだ。

 まだまだ言いたい文句は山ほどにあるがという顔をした政治家もいるものの、キール議長の頷きが人類補完委員会の閉会を告げる。

 明るさを取り戻した総司令執務室で、冬月コウゾウは肩をすくめた。

「予定外の使徒侵入。それを知った人類補完委員会によるつきあげか」

 本当に予定外であったのかどうか、冬月コウゾウにも少しばかり疑問がある。

 赤木リツコ博士の手際は見事だった、見事すぎた。

 こんなこともあろうかと、などという台詞こそ吐かなかったが、落ち着いた様子であっという間に処理してしまった。

 MAGIに侵入した使徒は、メルキオール一台すらハッキングできないうちに消滅させられた。

 事が人類補完委員会に漏れたという事実のほうが不思議なくらいだ。

 あまりに順調すぎる経過は、却って不安を呼ぶ。もしかして、踊らされているのはゼーレではなく、ネルフのほうではないのか、と。

「切り札は全てこちらが擁している。彼らには何もできんよ」

 しかし、あくまでも尊大な碇ゲンドウ。

「だからといってな。今ゼーレを刺激することはあるまいに?」

「全て我々の計画通りだ」

「そうか? アダムの消失は、俺のシナリオにはなかったが?」

「問題ない。第八使徒のアダム化計画は順調だ。2パーセントも遅れていない」

「ロンギヌスの槍は?」

「予定通りだ。作業はレイが行なっている」

 自信たっぷりの碇ゲンドウであった。

 しかし、綾波レイは、更衣室で碇シンジの下着の匂いをかぐことに夢中だったので、そんなことはすっかり忘れていた。

 ロンギヌスの槍は、リリスにぶち込まれることもなく、零号機ケイジの隅にうち捨てられていたのであった。

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