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第2話「見知らぬ、天井」

 ずり。ずり。ずり。

 その不気味な物音にまず気付いたのはエヴァ初号機を取り巻いていた整備員の一人。

 彼のあげた叫びに振り向いたミサトが、目をみはった。

「綾波……レイ!?」

 身体中に包帯を巻き付け、ふるえよろめく足取りでエヴァケージに這いだしてきた。

 着飾ればアイドルデビューだって夢じゃない美少女も、眼帯に片目となったその紅い瞳をはれぼったく輝かせ、どこか幽鬼じみた表情でずるりずるりと歩む姿は。

 愛らしいとはとてもいえない。ただでさえ薄暗く、初号機に碇ゲンドウにと不気味顔の相乗作用でおどろ渦巻くケージを、さらに番町皿屋敷へと落とし込んだ。

 一足ごとにゆれる蒼銀の髪が鬼火にも見えてしまうような。

 ミサトの足下でようやく気を取り戻した赤木リツコ博士まで、その姿にふたたび現世を離脱しそうになる。

 いざとなればシンジの代わりにレイを初号機にぶちこみ出撃させる気でいたとはいえ、骨折やら内臓への甚大な圧迫やらでベッドに縛り付けられている綾波レイだ。

「そんな。動けるはずないのよ!」

 シンクロしさえすればエヴァは動くだろうが。綾波レイ自身は動けまい。いくら使命感にあふれゲンドウに動けと命令されたとしても。

 ほら貧血で唇が紫にしぼんで、胸の包帯から血を滲ませているというのに。

 綾波レイ、なにを思ってなにをどうして、こんなところにひとり現れいでたのか。

 その視線はひたり、初号機首筋の碇シンジを見据えていた。



「ひぃ……」

 喉から絞り落ちるかすれた悲鳴を碇シンジ。

 迫り来る少女を硬直して見つめ返している。ミサトやリツコが受けているショックとはまた次元の違った恐怖を抱いた。

 シンジにとってはレイは人外のもの。巨大化して黒い瞳孔かっぴらいていた悪夢が脳裏を駆け巡る。

 のけぞって。

 足をすべらせそのままLCL冷却水の池にどぼんと落ち沈む。

 泳げない、なんて悠長なことは言ってられなかった。闇雲に手足を振り回して水面を叩き、必死にアンビリカールブリッジにたどり着く。

 逃げなきゃ、と思った。理屈ではなく。

 たどり着いたが、手に力が入らない。制服を濡らしてしまったLCLがべっとりと重い。

 四苦八苦のシンジに差し伸べられた手は、包帯に隠された蒼白い肌。

 眼前に綾波レイの瞳があった。

「うわあああ」

 声を限りに叫び突き飛ばそうとしたが、レイの細い手のどこにそんな力があるのか、がっしり掴んで放してくれない。逆にブリッジに引き上げられてしまった。

「な、なんだよ。なにするんだよ」

 パニックに陥ったシンジに、レイは妖艶に微笑んだ。

 ……碇くん。わたしとひとつになりましょう。

「え?」

 押し倒されのしかかられ、そして唇を奪われた。

 ……これは碇君とひとつになりたいわたしのココロ。そのために時をさかのぼったのだもの。

 錆びた血の匂いが少々鼻をついたが、からめ取られた舌のあいだに、熱い唾液と心を流し込まれる。薄いプラグスーツごしにやわらかな乳房の膨らみを押し当てられる。

「あ、や、なみ?」

 う……気持ちいいかも知れない。

 一時的接触にはとても弱い碇シンジであった。



 怪談が唐突に猥談へとすり替わったような光景に、誰もがただ唖然と見守るだけだった。

 なにしろ訳が分からない。

 使徒が迫っている。人類の命運かけて、得体の知れない究極兵器エヴァンゲリオンを運用し、幼子を脅しつけて無理矢理搭乗させてでも戦いに臨まねばならないシリアス場面で。

 濡れ場を見せつけられる羽目になるとは思わなかった。

「どうなってんの?」

 ミサト、呆然とひとこと。

「さ、さあ?」

 リツコも固まってる。

 もっとも。たとえ電源もはいっておらず外界を知覚することなど不可能なロボット兵器が勝手に拘束具をぶちきってパイロットを守るように手をかざしても、「そんなこともあるのかもしれない」と納得できてしまうような神話レベルの科学に従事している彼女だから。

 レイの魂がシンジくんに引き寄せられたのかしら、くらいの御都合主義的理解が出来ないこともないのだが。

 そんなことをミサトに告げる気にもなれないし。

 初号機の頭上では碇ゲンドウが目を剥いているし。

「ロ、ロジックじゃないのよ」

 ととりあえず思考停止する以上の言葉が出ない。

 時計の針を進めたのは、やはり碇ゲンドウだった。

「出撃」

 その内心はともかく、表面上は冷徹に踏みとどまったかに見えた。

「葛城一尉。シンジをレイから引き離して、エントリープラグに放り込め」

 いや、冷静ではなかったかも知れない。



 押っ取り刀で飛び込んできた医師団に綾波レイは拘束されて病院に連れ戻された。

 赤木リツコはまだ頭がずきずきするが、鋭角に絶対境界線を突破したシンクログラフに満足した。

 葛城ミサトは「エヴァンゲリオン、発進!」の発令を響きわたらせて指揮官を気取った。

 冬月コウゾウはさも当然という体で「勝ったな」と呟いた。

 碇ゲンドウはにやりと唇を歪めようとしたが、あれこれ思うところがありすぎて頬をひきつらせたような泣き笑いに終わった。

 虎の子のN2地雷を使用したのに足止めにしかならないと評価された国連軍は、卑怯者とネルフを罵った。

 初号機は、未だ自己修復中で動くこともままならなかった使徒に襲いかかって、これを瞬殺した。

 第三使徒は、ゴングが鳴るのを待てないのかと文句を言いたそうな風情も漂わせて十字の火柱をあげ昇天した。

 エントリープラグでは、カヲルくんに逢いたくて戻ってきたけど綾波とひとつになるのも良いかも知れない、と碇シンジは甘い口づけにあっさり陥落されていた。



 そしてその頃、ドイツでは。

 エヴァンゲリオン弐号機が、シンクロ率100パーセントを記録して初起動に成功していた。

 ドイツネルフ支部司令は、起動するなりサポートしていた国連軍に襲いかかったエヴァ弐号機に腰を抜かし、パイロットを精神汚染と判断して拘束命令を出した。

「負けてらんないのよ、このあたしは!」

 圧縮濃度を上げられたLCLに気を失う直前そう叫んだセカンドチルドレン惣流アスカラングレーの言葉の意味は、この時点では誰にも理解されなかったのであった。

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