第13話「リツコ2」
キーコキーコ。
先日来の雨のおかげで今日は比較的涼しいけれども、それでも第三新東京市は常夏だ。
そよぐ風の中、爽やか気分でサイクリング、というわけにはいかない。
それにこの自転車は、時代錯誤のママチャリだし。変速ギアなんてものはついていないから、この坂道はちょいとばかり辛い。
ネルフ仕立ての公用車で保安部に送らせても良かったのだし、葛城ミサトだって乗せてってやると言ったのだが、それを断ってまで何ゆえに赤木リツコ博士があくせくペダルをこいでいるのかと言えば。
「たまには運動もしなくてはね。研究室に閉じこもってばかりいたら、それこそ老化が早まるわ」
三十路に突入して落ち込んだ体力回復のための、トレーニングを兼ねているのであった。
キーコキーコ。
本人のつもりでは軽快に。わずか離れて警護する保安部の面々の目からは極めてのたくさと危なっかしく。
赤木リツコはママチャリを駆って坂道を登る。
ようやく前方に、目指す市立第壱中学校の校舎が見えてきた。
「うふふ、計算通りだわ」
腕時計をちらりと見て、赤木リツコ。
ちょうど進路相談の時間ぴったりには到着するだろう。
「だーかーらー。あんた、いいかげんにシンジから離れなさいってえの」
「なぜ?」
惣流アスカの激昂に応える綾波レイの返事は、短い。短く短く問い返しているだけだが。
「猿は用済み。碇くんにはあなたは必要ないもの」
と、目が言っている、口元が言っている、シンジの腕をつかんだその手が言っている。アスカにはそんな気がするのだ。
「むっきー」
だからますます荒れ狂う。
「あんたもデレデレ鼻の下のばしてないで! このドスケベ、変態!」
「そんなんじゃないよっ」
困ったように反論するシンジは、でも、やっぱりどこか、まんざらでもなさそうな様子が。
一応クーラーは入っているけれど省エネとかなんとかで、あまり効いているとは言えない教室。他人にべたべたと寄ってこられたのでは暑くてやりきれないところだが、その相手が美少女となれば、まあ話は別だ。
アスカでなくとも、客観的にもシンジはでれでれとして見える。
やりきれないのは、教室のあちこちで遠巻きに三人の様子を眺めるクラスメイトのほうだろう。
数日前に惣流アスカが転校してきた日以来、この嫌になりそなやりとりが繰り返されている。
「つまりだな」
と相田ケンスケは辟易しているクラスメイトたちに解説した。
「あの碇シンジって転校生は、一見なよなよしているように見えるが、その実。色欲魔界からやってきた巨根大王の御曹司なんだ。魔界人の魔力で、綾波レイを虜にした。血の盟約、ってやつだな。ところが」
「ところが?」
「実は魔界には親の決めた許嫁がいた。それがあの惣流アスカだ。人間界で浮気をしていることを知った惣流アスカは、怒り狂って魔界より舞い降り、ここに魔界の王女アスカ対人間界の魔女綾波レイの死闘が……」
ボコッ。
飛んできた上履きがケンスケの後頭部に命中し、メガネを吹き飛ばして彼は轟沈した。
「なに、どっかで読んだような嘘八百並べてんのよ。あたしがやってきたのは魔界じゃなくて、ドイツよ、ドイツ!」
中学校の狭い教室である。あほなことを大声でほざいていれば聞こえないはずがない惣流アスカ。振り返って制裁を加えた。
「まったく。ろくなこと妄想しないわねっ」
「ちょっと惣流さん、なにも上履きを投げなくても」
と、おさげにそばかすも可愛い洞木ヒカリ委員長がとりなしても、アスカの立腹はおさまらない。
「あんな馬鹿な噂たてられたら困るじゃないのよ」
「ううん、誰も本気にしないと思うわよ?」
当り前である。
中学生のたわいない冗談だ。うんうん、とケンスケの話を聞いていた連中も首を上下に振ったが。
「ほうか、ほうやったんか。魔界がどうこうっちゅうんはよう分からんが、要するにアソコがデカイのがポイントなんやな」
ひとり、なにやら適当に解釈して信じ込んでしまった単純少年がいたようだ。
ぐっと拳を握りしめて、机の上に立ち上がる。
「鈴原?」
洞木委員長が呆れ顔で叱責しようとしたその暇もなく、鈴原トウジは碇シンジを睨み付けて叫んだ。
「デカさやったらワイも負けてへんで。見てみい!」
ずりっ、と。履いている黒のジャージを、トランクスごと引き下げて腰を突き出した。
きゃあ、と嬌声のわき上がる教室で、鈴原トウジはさも得意そうにぶらんぶらんさせるのであった。
まあ、こういう阿呆はどのクラスにだって一人や二人はいるものである、中学生という奴は。
見せつけられた碇シンジは、うっ、ぼくよりもカヲルくんよりも大きい、とちょっとダメージを喰らった。
綾波レイは、やはり冷静な顔つきで観察しつつ、連想ゲームは一瞬で動物園に行き着いた。
見たかったような見てはいけないような気分の洞木ヒカリは、真っ赤にゆで上がって、今夜は眠れないかもと思った。
前世をあわせればこれでトウジのものを見せつけられるのは二度目の惣流アスカは、堪忍袋の緒が切れたと、もう片方の上履きを脱いで力任せにそれを叩こうとした。
風前の灯火のトウジのモノをその攻撃から救ったのは、教室のドアからかけられたダミ声だった。
「おまえ、なにをしとるんじゃい?」
「あ、おとん。なんや、なんでおとんがこないなとこに?」
「あほぅ、進路相談やないか。情けない。ワシはそんな息子に育てた覚えはないぞ」
「痛い、いたい。かんにんや、おとん」
体格のいい親父さんに耳たぶひっぱられて教室から出ていくトウジを見送り、惣流アスカはシンジの耳に唇を寄せた。
「命拾いしたわね、鈴原の奴。にしても……鈴原のパパって、碇司令よりイカツイんじゃない?」
「そ、そうだね」
シンジもこくりと同意する。
トウジのお父さんって初めて見たなあ。確かどっかの研究所勤めだって前に聞いたような気がするけど。肉体労働者みたいだ。
「ところで。シンロソウダン、って何よ?」
「あ、アスカは知らなかったっけ。今日、進路相談日なんだ。保護者の人との三者面談」
「はあん。あたし、聞いてないわよ?」
「アスカが来る前に連絡があった話だから……かな」
「まあ、別に相談するような進路なんてないけどさ。保護者って、じゃあ、あんたは碇司令が来んの?」
「ちがうよ。リツコさん」
「あ、ああ。それよ。あんた、今日こそははっきり説明してもらうわよ。なんであんた、リツコんちなんかで住んでんの?」
「なぜって。なんとなくそうなっちゃったから」
「なんとなくってなによ。おかげであたしがどれほど苦労してるか」
「アスカはどうしてまたミサトさんちでいるのさ?」
「あんたがいると思ってたからよ」
とはアスカは言わない。
ちっ、と口元を歪めた。おかげで、シンジの手料理が食べられない。
シンジの手料理が食べたいというより、葛城ミサトと交代で自分で食事の準備をしなくてはならないのが面倒くさいのであった。
「まったくあんたといい、ファーストといい、勝手気ままにやってくれちゃって」
「なんだよ、それ」
ぶつくさと碇シンジ。
惣流アスカまでわざわざ時を遡ってきた理由がよくつかめないのだが。
もしかして、ぼくとカヲルくんの仲を裂こうとしてるのでは、とか疑心暗鬼で、出来るだけアスカを避けているシンジなのであった。
そうはずれた推測ではない。
惣流アスカは、シンジの薔薇色ホモ人生を許すつもりなど無かったから。下僕が勝手なことをしてはいけないのである。
ただ、綾波レイがシンジべったりになっているとは思わなかった。
じろりと睨んでやるが、レイは今はもうシンジの手を離して、どこやら遠くを見つめている。
鈴原トウジ露出事件で、なんとなく惚けた空気の漂う教室に、また保護者の一人が顔を見せた。
「シンジくん」
金髪の科学者、赤木リツコ博士。微かに汗に濡れたほつれ毛が妖艶だった。
「あ、リツコさん」
と答えたシンジの言葉が、また教室にざわめきをもたらした。
母親にしては若すぎる。姉にしては……いや、家族にしては名前をさん付けで呼びかけるのは変だ。
なんなんだ、あの碇シンジとか言うやつは。やはり、ケンスケの言ったとおり、魔界のなにやらなのか?
いつの間にやら再起動した相田ケンスケが、端末に向かってかちゃかちゃと新たな妄想を入力していた。
「レイ、それにアスカも」
「あたしも? いいわよ、あたしは」
「綾波たちの進路相談も、リツコさんがやるんですか?」
「違うわ」
三人を教室の外に呼び出した赤木リツコは首を振った。
「いえ、そのつもりで来たのだけどね。予定が変わったの」
「変わったって?」
「三人とも、早退してちょうだい。出撃、よ」
「え? まさか。使徒?」
シンジは、そしてアスカもきょとんとした。記憶とはタイミングが違う。
怪訝そうな少年少女たちに、リツコはふわりと片方の眉をあげて感情のこもらない笑いを見せた。
「相手は使徒じゃなくて。JAよ」
先日来の雨のおかげで今日は比較的涼しいけれども、それでも第三新東京市は常夏だ。
そよぐ風の中、爽やか気分でサイクリング、というわけにはいかない。
それにこの自転車は、時代錯誤のママチャリだし。変速ギアなんてものはついていないから、この坂道はちょいとばかり辛い。
ネルフ仕立ての公用車で保安部に送らせても良かったのだし、葛城ミサトだって乗せてってやると言ったのだが、それを断ってまで何ゆえに赤木リツコ博士があくせくペダルをこいでいるのかと言えば。
「たまには運動もしなくてはね。研究室に閉じこもってばかりいたら、それこそ老化が早まるわ」
三十路に突入して落ち込んだ体力回復のための、トレーニングを兼ねているのであった。
キーコキーコ。
本人のつもりでは軽快に。わずか離れて警護する保安部の面々の目からは極めてのたくさと危なっかしく。
赤木リツコはママチャリを駆って坂道を登る。
ようやく前方に、目指す市立第壱中学校の校舎が見えてきた。
「うふふ、計算通りだわ」
腕時計をちらりと見て、赤木リツコ。
ちょうど進路相談の時間ぴったりには到着するだろう。
「だーかーらー。あんた、いいかげんにシンジから離れなさいってえの」
「なぜ?」
惣流アスカの激昂に応える綾波レイの返事は、短い。短く短く問い返しているだけだが。
「猿は用済み。碇くんにはあなたは必要ないもの」
と、目が言っている、口元が言っている、シンジの腕をつかんだその手が言っている。アスカにはそんな気がするのだ。
「むっきー」
だからますます荒れ狂う。
「あんたもデレデレ鼻の下のばしてないで! このドスケベ、変態!」
「そんなんじゃないよっ」
困ったように反論するシンジは、でも、やっぱりどこか、まんざらでもなさそうな様子が。
一応クーラーは入っているけれど省エネとかなんとかで、あまり効いているとは言えない教室。他人にべたべたと寄ってこられたのでは暑くてやりきれないところだが、その相手が美少女となれば、まあ話は別だ。
アスカでなくとも、客観的にもシンジはでれでれとして見える。
やりきれないのは、教室のあちこちで遠巻きに三人の様子を眺めるクラスメイトのほうだろう。
数日前に惣流アスカが転校してきた日以来、この嫌になりそなやりとりが繰り返されている。
「つまりだな」
と相田ケンスケは辟易しているクラスメイトたちに解説した。
「あの碇シンジって転校生は、一見なよなよしているように見えるが、その実。色欲魔界からやってきた巨根大王の御曹司なんだ。魔界人の魔力で、綾波レイを虜にした。血の盟約、ってやつだな。ところが」
「ところが?」
「実は魔界には親の決めた許嫁がいた。それがあの惣流アスカだ。人間界で浮気をしていることを知った惣流アスカは、怒り狂って魔界より舞い降り、ここに魔界の王女アスカ対人間界の魔女綾波レイの死闘が……」
ボコッ。
飛んできた上履きがケンスケの後頭部に命中し、メガネを吹き飛ばして彼は轟沈した。
「なに、どっかで読んだような嘘八百並べてんのよ。あたしがやってきたのは魔界じゃなくて、ドイツよ、ドイツ!」
中学校の狭い教室である。あほなことを大声でほざいていれば聞こえないはずがない惣流アスカ。振り返って制裁を加えた。
「まったく。ろくなこと妄想しないわねっ」
「ちょっと惣流さん、なにも上履きを投げなくても」
と、おさげにそばかすも可愛い洞木ヒカリ委員長がとりなしても、アスカの立腹はおさまらない。
「あんな馬鹿な噂たてられたら困るじゃないのよ」
「ううん、誰も本気にしないと思うわよ?」
当り前である。
中学生のたわいない冗談だ。うんうん、とケンスケの話を聞いていた連中も首を上下に振ったが。
「ほうか、ほうやったんか。魔界がどうこうっちゅうんはよう分からんが、要するにアソコがデカイのがポイントなんやな」
ひとり、なにやら適当に解釈して信じ込んでしまった単純少年がいたようだ。
ぐっと拳を握りしめて、机の上に立ち上がる。
「鈴原?」
洞木委員長が呆れ顔で叱責しようとしたその暇もなく、鈴原トウジは碇シンジを睨み付けて叫んだ。
「デカさやったらワイも負けてへんで。見てみい!」
ずりっ、と。履いている黒のジャージを、トランクスごと引き下げて腰を突き出した。
きゃあ、と嬌声のわき上がる教室で、鈴原トウジはさも得意そうにぶらんぶらんさせるのであった。
まあ、こういう阿呆はどのクラスにだって一人や二人はいるものである、中学生という奴は。
見せつけられた碇シンジは、うっ、ぼくよりもカヲルくんよりも大きい、とちょっとダメージを喰らった。
綾波レイは、やはり冷静な顔つきで観察しつつ、連想ゲームは一瞬で動物園に行き着いた。
見たかったような見てはいけないような気分の洞木ヒカリは、真っ赤にゆで上がって、今夜は眠れないかもと思った。
前世をあわせればこれでトウジのものを見せつけられるのは二度目の惣流アスカは、堪忍袋の緒が切れたと、もう片方の上履きを脱いで力任せにそれを叩こうとした。
風前の灯火のトウジのモノをその攻撃から救ったのは、教室のドアからかけられたダミ声だった。
「おまえ、なにをしとるんじゃい?」
「あ、おとん。なんや、なんでおとんがこないなとこに?」
「あほぅ、進路相談やないか。情けない。ワシはそんな息子に育てた覚えはないぞ」
「痛い、いたい。かんにんや、おとん」
体格のいい親父さんに耳たぶひっぱられて教室から出ていくトウジを見送り、惣流アスカはシンジの耳に唇を寄せた。
「命拾いしたわね、鈴原の奴。にしても……鈴原のパパって、碇司令よりイカツイんじゃない?」
「そ、そうだね」
シンジもこくりと同意する。
トウジのお父さんって初めて見たなあ。確かどっかの研究所勤めだって前に聞いたような気がするけど。肉体労働者みたいだ。
「ところで。シンロソウダン、って何よ?」
「あ、アスカは知らなかったっけ。今日、進路相談日なんだ。保護者の人との三者面談」
「はあん。あたし、聞いてないわよ?」
「アスカが来る前に連絡があった話だから……かな」
「まあ、別に相談するような進路なんてないけどさ。保護者って、じゃあ、あんたは碇司令が来んの?」
「ちがうよ。リツコさん」
「あ、ああ。それよ。あんた、今日こそははっきり説明してもらうわよ。なんであんた、リツコんちなんかで住んでんの?」
「なぜって。なんとなくそうなっちゃったから」
「なんとなくってなによ。おかげであたしがどれほど苦労してるか」
「アスカはどうしてまたミサトさんちでいるのさ?」
「あんたがいると思ってたからよ」
とはアスカは言わない。
ちっ、と口元を歪めた。おかげで、シンジの手料理が食べられない。
シンジの手料理が食べたいというより、葛城ミサトと交代で自分で食事の準備をしなくてはならないのが面倒くさいのであった。
「まったくあんたといい、ファーストといい、勝手気ままにやってくれちゃって」
「なんだよ、それ」
ぶつくさと碇シンジ。
惣流アスカまでわざわざ時を遡ってきた理由がよくつかめないのだが。
もしかして、ぼくとカヲルくんの仲を裂こうとしてるのでは、とか疑心暗鬼で、出来るだけアスカを避けているシンジなのであった。
そうはずれた推測ではない。
惣流アスカは、シンジの薔薇色ホモ人生を許すつもりなど無かったから。下僕が勝手なことをしてはいけないのである。
ただ、綾波レイがシンジべったりになっているとは思わなかった。
じろりと睨んでやるが、レイは今はもうシンジの手を離して、どこやら遠くを見つめている。
鈴原トウジ露出事件で、なんとなく惚けた空気の漂う教室に、また保護者の一人が顔を見せた。
「シンジくん」
金髪の科学者、赤木リツコ博士。微かに汗に濡れたほつれ毛が妖艶だった。
「あ、リツコさん」
と答えたシンジの言葉が、また教室にざわめきをもたらした。
母親にしては若すぎる。姉にしては……いや、家族にしては名前をさん付けで呼びかけるのは変だ。
なんなんだ、あの碇シンジとか言うやつは。やはり、ケンスケの言ったとおり、魔界のなにやらなのか?
いつの間にやら再起動した相田ケンスケが、端末に向かってかちゃかちゃと新たな妄想を入力していた。
「レイ、それにアスカも」
「あたしも? いいわよ、あたしは」
「綾波たちの進路相談も、リツコさんがやるんですか?」
「違うわ」
三人を教室の外に呼び出した赤木リツコは首を振った。
「いえ、そのつもりで来たのだけどね。予定が変わったの」
「変わったって?」
「三人とも、早退してちょうだい。出撃、よ」
「え? まさか。使徒?」
シンジは、そしてアスカもきょとんとした。記憶とはタイミングが違う。
怪訝そうな少年少女たちに、リツコはふわりと片方の眉をあげて感情のこもらない笑いを見せた。
「相手は使徒じゃなくて。JAよ」